2つの物語が入った不思議な本
今回ご紹介するのは、『ウェイクフィールドとウェイクフィールドの妻』という一風変わった本です。この本には2つの作品が収録されています。1つ目は、ナサニエル・ホーソーンによる『ウェイクフィールド』という短編小説。そして2つ目が、エドゥアルド・ベルティによる『ウェイクフィールドの妻』です。
youtubeで紹介した動画はこちらです!
https://www.youtube.com/watch?v=Aqa2BaatMg4
英米文学史に残る奇妙な短編『ウェイクフィールド』
まず、元となった『ウェイクフィールド』について説明しましょう。この作品は1835年、南北戦争以前に発表された、英米文学の中でも相当有名な短編です。作者のナサニエル・ホーソーンはアメリカを代表する作家で、わずか10〜15ページほどのこの短編は、その奇妙な内容で知られています。
物語は、作者ホーソーン自身が「どこかの新聞で読んだ」という語り口で始まります。ごく普通に暮らしていた真面目な勤め人の男・ウェイクフィールドが、ある日妻に「旅行に出かける」と告げて家を出ます。「金曜日ごろには帰ってくるかもしれない」と言い残して。
ところが、彼はそのまま20年間帰ってきません。
さらに驚くべきことに、ウェイクフィールドは遠くへ旅立ったわけではありませんでした。なんと自宅から通り一つ向こうの家を借りて、そこで暮らし始めたのです。時折、妻の様子をこっそり覗き見しながら、見つからないように気をつけて。
そして20年後、ある日突然、彼はふらりと自宅に戻ります。ドアが開き、妻が出迎え、ドアが閉まる——物語はそこで終わります。
この不可解さ、謎めいた雰囲気こそが『ウェイクフィールド』の魅力です。実は作中で語られる出来事、ウェイクフィールドという名前さえも、すべてホーソーンの想像によるもの。「きっとこういう事情があったんだろう」「こんなことをしていたに違いない」という想像で書かれた作品なのです。このあやふやさ、謎めいた雰囲気は、後のカフカにも影響を与えたと言われています。
160年以上の時を超えて生まれた「妻の物語」
そして現代。1999年に、アルゼンチンの作家エドゥアルド・ベルティが、このホーソーンの短編に応答する形で『ウェイクフィールドの妻』を発表しました。
2人の作家は時代が全く交差しません。ホーソーンが1835年に作品を発表してから、実に160年以上が経過しているのです。しかしベルティは、「では、妻側の視点で物語を書いたらどうなるか」という問いを立て、新たな作品を生み出しました。
この2作品が1冊の本に収められているのが、今回ご紹介している本なのです。
ボリュームの圧倒的な差
面白いのは、2作品のボリュームの違いです。
原作の『ウェイクフィールド』は10〜15ページ程度の短編ですが、『ウェイクフィールドの妻』はなんと200ページ。妻側の物語の方が圧倒的に長いのです。
構成としては、まず『ウェイクフィールド』が収録され、その後に『ウェイクフィールドの妻』が続きます。原作でほんの一言しか言及されなかった使用人などの人物が、妻の物語では大きく膨らんで描かれます。夫が不在の20年間、妻は何をしていたのか——それが詳細に語られているのです。
謎は謎のまま、しかし新たな真実が
『ウェイクフィールド』が評価されている最大の理由は、その不可解さにあります。そもそもなぜウェイクフィールドは20年間も姿を消し、また戻ってきたのか。この謎こそが作品の核心です。
『ウェイクフィールドの妻』でも、当然ながらこの謎が明確に解明されることはありません。謎は謎のまま残されます。ただし、妻には妻の事情があり、実は彼女も様々なことを抱えていたことが明かされます。それはおそらくウェイクフィールド自身も知らなかったであろう真実です。
「ああ、そういう風な物語だったのか」という新たな視点が加わることで、読者は原作を全く異なる角度から見直すことになります。
印象的なシーンの裏側
原作には印象的なシーンがあります。中盤のクライマックスとも言える場面で、カツラをかぶり服装も変えて妻に見つからないように歩いていたウェイクフィールドが、ある日ばったりと妻と出会ってしまうのです。
すれ違いざま、肩がぶつかるほど近く、目と目が合うほどの距離。しかし、2人はそのままお互いを認識することなく(あるいは認識しながらも)すれ違っていきます。
夫にとっては「やばい、やばい」という瞬間だったでしょう。では、妻はその時何を思ったのか。『ウェイクフィールドの妻』では、この場面における妻の視点と感情もしっかりと描かれています。
ただし、ウェイクフィールドという人物の内面は、原作でもかなり分かりづらく描かれています。それこそが作品の魅力であり、読者それぞれの解釈を許す余白となっているのです。
豊田市図書館の興味深いランキング
この本にまつわる面白いエピソードがあります。
『ウェイクフィールド』は、著名な翻訳家・柴田元幸氏によって翻訳されています。柴田氏は岸本佐知子氏と並ぶ、日本を代表する翻訳家の二大巨頭と言われる存在です。
豊田市図書館では、この2人の翻訳書を対象とした「貸し出し回数が少ない本ランキング」というユニークな企画が行われたことがあります。そして『ウェイクフィールドとウェイクフィールドの妻』は、柴田作品の中で貸し出し回数が少ない本ランキング第5位にランクインしたそうです。
この順位をどう解釈するべきでしょうか。
貸し出し回数が少ないということは、あまり知られていない本なのかもしれません。しかし、内容はこれほど面白く独創的です。ということは、図書館で借りて読むというよりも、手元に置いて何度も読み返したくなる本、つまり「買って読みたい本」なのかもしれません。
いずれにせよ、不思議な魅力を持った、隠れた名作と言えるでしょう。
- 「一方その頃」というジャンル
このような「メインの物語があって、その裏側で別の人物が何をしていたか」という構造の作品は、文学史の中にいくつか存在します。
最も有名な例は、トム・ストッパードの戯曲『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』でしょう。
シェイクスピアの『ハムレット』には、ハムレットと一緒にロンドンに向かった2人の人物、ローゼンクランツとギルデンスターンが登場します。しかし彼らは物語の途中で姿を消し、ハムレットだけが帰還します。そして「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」という一言のセリフで片付けられてしまうのです。
ストッパードはこの2人に焦点を当て、「一方その頃、彼らに何が起こっていたのか」という物語を創作しました。これは戯曲として高い評価を受け、映画化もされています。
日本の作品で考えるなら、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』も可能性があります。主人公ジョバンニが銀河鉄道に乗っている間、溺れてしまった友人カンパネルラや、彼を川に突き落としたザネリは何をしていたのか——こうした「もう一つの物語」を想像する余地は十分にあるでしょう。
漫画の世界では、『カイジ』のスピンオフである『中間管理録トネガワ』や『1日外出録ハンチョウ』などが、この「一方その頃」の構造を持った作品として成功しています。特に『ハンチョウ』第1話で、班長が50万ペリカの1日外出券を使って蕎麦チェーン店に行き、あえてスーツ姿でビールを飲むシーンは印象的です。カジュアルな服装では「社会的落伍者」と見なされるかもしれないが、スーツを着ていれば「重役」として羨望の眼差しを受けられる——地下労働施設にいる班長ならではの、切実で皮肉な楽しみ方が描かれています。
また、『ジョジョの奇妙な冒険』第5部では、物語の途中で突然チームから離脱するキャラクターがいて、その理由や行方について様々な考察がファンの間で交わされています。能力が強すぎたからという説や、作者の都合という説など、公式には語られない「空白」が、かえって想像力を掻き立てる例と言えるでしょう。
まとめ
『ウェイクフィールドとウェイクフィールドの妻』は、160年以上の時を超えた文学的対話の結実です。
ナサニエル・ホーソーンが1835年に残した不可解な短編に対して、エドゥアルド・ベルティが1999年に「妻の視点」という新たな光を当てました。原作の謎はそのまま保ちながら、しかし物語の世界は大きく広がり、深みを増しています。
『ウェイクフィールドの妻』はフランスのフェミナ賞にノミネートされるなど、文学作品として確かな評価を得ています。貸し出し回数の少なさは、むしろこの本の特別さを物語っているのかもしれません。
もし「一方その頃」という視点に興味があるなら、あるいは文学的実験に惹かれるなら、この奇妙で魅力的な一冊を手に取ってみてはいかがでしょうか。

