『老人ホーム 一夜のコメディ』──認知の崩壊を描く異色小説

今回ご紹介するのは、イギリスの作家B・S・ジョンソンによる小説『老人ホーム 一夜のコメディ』です。
一見すると老人ホームを舞台にした静かな物語ですが、その構成と内容は、常識を覆すような実験的な試みに満ちています。


舞台は老人ホーム──9人それぞれの視点で進行

物語の舞台は、名前も明かされないとある老人ホーム
登場するのは、8人の老人と1人の寮母、合計9人です。

本作は、この9人それぞれの視点から同じ一夜の出来事を描きます。
構成も極めて厳密で、各人物にちょうど30ページずつ割り当てられています。

さらに特筆すべきは、ページ数と時間軸が完全に同期している点です。

  • どの人物の章でも、1ページ目では同じ時間帯の出来事が描かれ
  • 25ページ目では、すべての章が同じ時刻の出来事を別の視点から描いている

例えば、ある登場人物の視点で「誰かが奇妙な行動をしている」と見える場面が、他の人物の章を読むことで「実はこういう理由だった」と明かされる。
読者は各人物の内面を追いながら、パズルのピースのように物語の全貌を組み立てていくことになります。


CQ値──認知の崩壊を数値化する

本作には、もう一つ非常にユニークな設定があります。
それが**CQ値(Cognition Quotient)**です。

物語冒頭で、登場人物ごとに

  • 視覚・聴覚の残存率
  • CQ値(認知度を表す指標、10が最高)

が設定されています。
最初の登場人物はCQ値10。
つまり、現実をしっかり把握できる健康な老人です。
しかし、章が進むにつれ、登場人物のCQ値は段階的に低下していきます。

  • CQ値2では、ページに単語がポツポツとしか現れず
  • CQ値0に達したロゼッタ・スタントンの章では、意味を成さない言葉が点在し、ついには真っ白なページが続く

この構成によって、読者は認知機能の崩壊を追体験することになります。
ただ静かに怖く、そして圧倒的なリアリティをもって描かれるこの流れは、決して他の小説では味わえない感覚です。


B・S・ジョンソンという作家

本作を書いたB・S・ジョンソンは、イギリスの前衛的作家です。
10年間の作家活動で7冊の長編を発表し、そのすべてにおいて形式的な挑戦を行いました。

代表作には、

  • 箱の中に小冊子状の束が入っていて、好きな順に読んでよい形式の小説
  • ページの一部が切り取られており、未来の内容が透けて見える仕掛けの小説

などがあり、いずれも読書という行為そのものに新しい可能性を提案しています。
彼は40歳で自ら命を絶ちましたが、近年、再評価の機運が高まっており、『老人ホーム』もその文脈で紹介されています。


『老人ホーム』が再評価されている現代背景

B・S・ジョンソンは、生前には十分な評価を受けることができませんでした。
1970年代当時、彼の極端に実験的な作風は、「読者に優しくない」とされ、一般的な人気を得ることは難しかったのです。

しかし、21世紀に入り、文学界や読者の価値観が大きく変わりました。

  • 小説=直線的なストーリーをなぞるものという固定観念が崩れ、
  • メタフィクション読者参加型構造といった要素が、現代文学・ポストモダン文学の文脈で高く評価されるようになった
  • さらに、認知症や老いといったテーマへの社会的関心も、かつてないほど高まっている

こうした時代背景の中で、『老人ホーム』の持つ

  • 認知機能の崩壊を緻密に描くリアリズム
  • 非直線的かつマルチ視点の構造美
  • 人間存在そのものへの静かな問いかけ

が、むしろ今だからこそ読まれるべき作品として、再評価されてきたのです。
海外では、B・S・ジョンソンの作品群が復刊される動きもあり、学術的にも彼の影響力が再検討されています。
日本でも、彼の日本語訳作品が少しずつ注目されるようになっており、今後さらなる紹介や翻訳の広がりが期待されています。

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